阮恵・阮岳の死と阮福暎の反攻
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「西山朝」の記事における「阮恵・阮岳の死と阮福暎の反攻」の解説
無断の北伐と皇帝の名乗りによる阮兄弟の仲違いを知った阮福暎は、永隆・美湫を攻略し、泰徳11年(1788年)9月には嘉定を占拠した。泰徳12年 / 光中2年(1789年)7月、母国フランスからの支援を得ることに失敗したピニョーが戻り、私費で武器弾薬を購入し兵を集め、多くのフランス人がこれに応じた。阮福暎はフランス人勢力の他にもシャム・ポルトガル・マラッカ・イギリス人勢力の支援を受け、また独自にカンボジアで兵を集めた。泰徳15年 / 光中5年(1792年)には西山朝の艦隊がピニョーの傭兵艦隊に歸仁沖で撃破された。光中帝は大挙して阮福暎を討伐しようとしたが出陣直前に没し、翌年には泰徳帝も没した、光中帝の子の阮光纘(中国語版)(景盛帝)が後を継いだが、景盛7年(1799年)には阮福暎が歸仁を占領。同年から宝興元年(1801年)にかけて西山朝の将の陳光耀が阮福暎の将の武性(中国語版)と帰仁をめぐって激しい攻防戦を展開したが、その間に阮福暎によって広南・会安・沱㶞・富春を陥された。
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