関長誠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 関長誠の意味・解説 

関長誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 07:40 UTC 版)

 
関長誠
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享2年6月24日1745年7月23日
または寛保2年(1742年[1]
死没 文化7年2月11日1810年3月15日
改名 長誠、東鶴翁(法号)
墓所 東京都港区白金台瑞聖寺
官位 従五位下備前守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
備中新見藩
氏族 関氏
父母 父:関政富、母:不詳
養父:関政辰
兄弟 長誠政辰、富矩、浄願院、富昌、安藤広峯室、岩瀬氏以養女、金森可英養女
長輝森長義、千衛子
テンプレートを表示

関 長誠(せき ながのぶ)は、備中国新見藩の第5代藩主。新見藩関家6代。

略歴

生年は延享2年(1745年)6月24日生まれと言われているが、寛保2年(1742年)生まれという説もある。第3代藩主・関政富の長男であったが、父の死後は幼少の異母弟・政辰が家督を継いだ。これは、長誠の母が側室だったためである。そのため、30歳まで部屋住みの身分であった。しかし安永3年(1774年)に政辰が嗣子無くして死去すると、養子としてその家督を継いだ。

文武両道の名君であって新見生まれであり、豪放闊達な性格を生かし藩政改革を行なった。父・政富が創設した藩校・至誠舘を振興させ、財政再建を主とする藩政改革でも成功を収めた。このとき丸川松隠を招聘し、至誠舘の督学とし、また政治顧問として藩政に起用、殖産事業を行なった。

寛政7年(1795年)11月24日、家督を長男・長輝に譲って隠居し、東鶴翁と号した。文化7年(1810年)2月11日に死去した。享年66、もしくは享年69。

教養人としても一流で、学問に富み、筆に優れ、和歌も嗜む名君であった。

系譜

脚注

  1. ^ 『三百藩藩主人名事典 第4巻』新人物往来社、1986年、p.113。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関長誠」の関連用語

関長誠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関長誠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの関長誠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS