長崎での撮影
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:35 UTC 版)
山端は1945年(昭和20年)7月、福岡県福岡市にある陸軍の西部軍管区司令部に報道部員として徴用され、8月6日に赴任した。8月9日、長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受け、軍の命令により同じ報道部員である作家の東潤、画家の山田栄二ら5人で長崎県長崎市に向う(彼に下された命は「対敵宣伝に役立つ、悲惨な状況を撮影する」ことだったという)。8月10日午前3時ごろ、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着、その地点で列車は不通になっていたため、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在14時間で爆心地周辺など100コマを越える写真を撮影した。8月12日、フィルムを現像した。当時、従軍作家だった同僚の火野葦平の勧めで写真の内容を上司に報告しなかったという。
※この「長崎での撮影」の解説は、「山端庸介」の解説の一部です。
「長崎での撮影」を含む「山端庸介」の記事については、「山端庸介」の概要を参照ください。
- 長崎での撮影のページへのリンク