銅山への移行と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 00:19 UTC 版)
1675年(延宝3年)白根金山と山続きに駒木金山が開発された。金の品質は良好であったが量が不足しており、後に銅山として稼業された。また、1682年(天和2年)には同じく山続きに立石銅山が開発された。白根を始め鹿角の諸金山は次第に衰退して、寛文の頃からは銅鉱を生産するようになった。更に、生産の中心も白根から尾去沢鉱山に移動した。金山として繁栄した白根が銅山になったのは、1669年(寛文9年)であるとは『鹿角郡諸鉱山記』などの多くの記録に残されている。白根銅山はかなりの生産量を維持していたが、1697年(元禄10年)には飢饉によって、白根銅山の総人口881人のうち300人を減じている。1755年(宝暦5年)に盛岡十三日町の長之助が白根の稼行を受けたが、その当時は既に白根は閉山状態であった。長之助も翌年には稼行を中止した。その後、宝暦年間に何度か稼行が行われたが、それらは失敗し1765年(明和2年)には尾去沢鉱山とともに、藩の直営稼行となった。
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