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野田義夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:42 UTC 版)

野田 義夫
誕生 (1874-07-15) 1874年7月15日
福岡県八女郡下広川村(現・広川町
死没 (1950-11-01) 1950年11月1日(76歳没)
職業 教育者教育学者
国籍 日本
教育 文学博士(1924年・日本)
最終学歴 東京帝国大学文科大学
代表作 『日本国民性の研究』(1914年)
『教育学概論』(1915年)
『日本教育の検討』(1938年)
配偶者 ふく(高井利平妹)
子供 順二(養子・高井利平次男)
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野田 義夫(のだ よしお、1874年明治7年)7月15日[1] - 1950年昭和25年)11月1日[2])は、日本教育者

経歴

福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身[1]1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ[1]1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した[1]。その間の1924年大正13年)、文学博士号を受けた[1]

退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた[1][3]。その他、関西学院大学法文学部講師を務めた[1]

親族

著作

著書

脚注

参考文献

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。 
  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。 

関連文献

公職
先代
藤堂忠次郎
奈良女子高等師範学校附属高等女学校主事
1915年 - 1917年
次代
小川正行
その他の役職
先代
和田豊
親和高等女学校
1936年 - 1943年
次代
中島豊之
先代
本山彦一
羽衣高等女学校
1933年 - 1936年
次代
勝本鼎一



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