鄭瑪諾とは? わかりやすく解説

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鄭瑪諾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/26 17:25 UTC 版)

鄭瑪諾
出身地: マカオ
職業: イエズス会司祭
各種表記
繁体字 鄭瑪諾
簡体字 郑玛诺
拼音 Zhèng Mǎnuò
和名表記: てい マヌエル
発音転記: ジョン・マーヌオ
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鄭瑪諾(てい マヌエル、1635年? - 1673年5月26日[1])は、マカオ出身のイエズス会司祭。1650年代から1660年代にかけてヨーロッパに滞在し、西洋の学問を身につけて帰国した。最初の中国人イエズス会司祭であり[2]、17世紀に西洋を訪れた数少ない中国人のひとり。

「瑪諾」は洗礼名のマヌエルないしエマヌエルの音訳。西洋人には「Manuel de Sequeira」と呼ばれた。号は維信

略歴

鄭瑪諾に関する文献はほとんど Rouleau (1959) によっている。それによれば、鄭瑪諾は父の代からのキリスト教徒で、ヨーロッパに行くアレクサンドル・ドゥ・ロードに連れられて[3]1645年にマカオを出発した。まずアルメニアにあるドミニコ会の修道院にあずけられ、そこで半年学んだ後、1650年ローマに到達した。ローマ、ボローニャ、およびポルトガルコインブラ大学で学び、1664年司祭に叙階された。

1666年にリスボンを出発した。船には別の Nicolau da Fonseca というマカオ生まれの中国人(中国名不明)が同乗していた[4]1668年にマカオに戻ったが、当時の中国はキリスト教弾圧(康熙暦獄)が行われている最中だった。翌年ひそかに広州にはいった。弾圧が終了した後、1671年北京に移ったが、1673年に病死した。

脚注

  1. ^ 生卒年は Pfister (1932) の引用する墓碑銘による。Pina (2013) p.98 のように1633年生まれとする文献もある
  2. ^ ドミニコ会まで含めると羅文藻の方が早い
  3. ^ Pfister (1932) ではマルティノ・マルティニとともにヨーロッパへ行ったとするが、マルティニのヨーロッパ行きは福建からフィリピン・バタヴィアを経てノルウェーへ行くという通常とは異なる経路を通り、マカオを通っていない
  4. ^ Pina (2013) p.99

参考文献

関連項目




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