連雀町への市神招聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 13:55 UTC 版)
「館林の牛頭天王信仰」の記事における「連雀町への市神招聘」の解説
館林の市は、戦国時代の戦乱で一時中断していたが、北条氏支配の時代に再開された。『館林記』によると、北条氏規が館林城主であった頃である天正12年(1584年)12月、検断を務めていた小寺丹後の家に、小田原から来たういろう売りが宿をとった。その際に丹後が、「当地ではかつて六斎市が開かれていたが、今は絶えてしまっている。近郷の村からは市が立って欲しいと希望が上がっている」などと薬売りに相談したところ、薬売りは小田原に戻りそのことを北条氏直に進言した。氏直は館林より飯島源右衛門、鈴木半兵衛の2名を小田原に召して、市と市神の由来などを正したのち、市の設置と市神の鎮座を許可した。これにより三八の六斎市が連雀町で執り行われることになり、市神として八坂神社(牛頭天王)が同じく連雀町に奉斎された。小田原に呼ばれた2人のうち、鈴木は諸商売の荷物問屋を申し付けられ、もう1人の飯島は連雀商人の頭として、市神に関する一切を司ることとなった。
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