連署就任と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 03:05 UTC 版)
宝治元年(1247年)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。 建長8年(1256年)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年執権時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。 同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している。
※この「連署就任と晩年」の解説は、「北条重時」の解説の一部です。
「連署就任と晩年」を含む「北条重時」の記事については、「北条重時」の概要を参照ください。
- 連署就任と晩年のページへのリンク