三浦氏滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/04 03:03 UTC 版)
貞広の重臣として活躍の見られた清冬であるが、三浦氏滅亡後の記録はほとんど残されていない。天正8年(1580年)3月に寺畑城を江原親次と共に守備していたという事が唯一残っている記録であり、この頃宇喜多家臣となっていた事だけは確かなようである。 この後の清冬の事は不明であり、天正14年(1586年)に牧一門が高田城番の職を拝領した時、城番に任じられたのは牧家信であり、この頃には家信以下の高田城番の役職を記した書にすら名前は掲載されていない。清冬の子孫は帰農して久世に在住したという。
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