赤谷山城の戦いとは? わかりやすく解説

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赤谷山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:55 UTC 版)

赤谷山城」の記事における「赤谷山城の戦い」の解説

ところが、東氏勢力はしだい衰え支流遠藤氏勢力強大になった当時遠藤氏は、遠藤胤縁が木越城を拠点とし、その弟の遠藤盛数鶴尾山城拠点としていた。 そこで、常慶家督娘婿遠藤盛数に譲ることとした。しかし、常慶の子である東常堯はこれに納得しなかった。常堯は胤縁の娘を妻とし、盛数に対抗することを計画する。しかし、胤縁はこれを拒絶した。常堯は胤縁の娘を拉致しようと、木越城に乗り込むが、かえって捕らえられ侮辱受けた。 この結果、常堯は胤縁を恨むようになった。永禄2年1559年8月1日、常堯は、赤谷山城訪れた遠藤胤縁を暗殺した。 盛数は、弔い合戦大義名分として兵を挙げ8月14日出陣し東殿山城攻めた遠藤氏は、飛騨三木良頼支援受けていたともいう。 盛数方としては、粥川甚右衛門餌取六郎右衛門、胤縁の子である遠藤胤俊、畑佐備後・鷲見氏などが参戦した一方常慶方には、東尚胤・東常氏父子や、周辺諸勢力加わった。 盛数方の軍勢は、吉田川はさんで対岸位置する八幡山に陣をかまえた。これに対し常慶方は吉田川壊して防御図った失敗し赤谷山城三方から攻められることとなった10日間の防戦の末、8月24日に城は炎上し常慶戦死した。常堯は飛騨内ケ島氏のもとへ逃れた。こうして赤谷山城落城し、東氏滅亡した。城の東側の谷は、この戦いで兵が転げ落ちたことから、今でも地獄谷」と呼ばれている。

※この「赤谷山城の戦い」の解説は、「赤谷山城」の解説の一部です。
「赤谷山城の戦い」を含む「赤谷山城」の記事については、「赤谷山城」の概要を参照ください。

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