識の転変
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唯識思想は、この世界はただ識、表象もしくは心のもつイメージにすぎないと主張する。外界の存在は実は存在しておらず、存在しているかのごとく現われ出ているにすぎない。これを『華厳経』などでは次のように説いている。 又、是の念を作さく、三界は虚妄にして、但だ是れ心の作なり。十二縁分も是れ皆な心に依る。又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心 — 大方廣佛華嚴經十地品第二十二之三 識とは心である。心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。分別了達の根本であるから論に唯識という。あるいは経は、義が因果に通じ、総じて唯心という。論は、ただ因にありと説くから、ただ唯識と呼ぶのである。識は了別の義であり、因位の中にあっては識の働きが強いから識と説き、唯と限定しているのである。意味的には二つのものではない。『二十論』には、心・意・識・了の名はこれ差別なり、と説く。識者心也。由心集起。綵畫為主之根本故經曰唯心。分別了達之根本故。論稱唯識或經義通因果總言唯心。論說唯在因但稱唯識。識了別義。在因位中識用強故。說識為唯。其義無二。二十論云。心意識了。名之差別。 — 慈恩大師 大乘法苑義林章卷第一 その心の動きを「識 (vijñāna) の転変 (pariṇāma)」と言う。その転変には三種類あり、それは 異熟(いじゅく) - 行為の成熟 思量(しりょう) - 思考と呼ばれるもの 了別(りょうべつ) - 対象の識別 の3である。識の転変は構想である。それによって構想されるところのものは実在ではない。したがってこの世界全体はただ識別のみにすぎない。
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