諸藩への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 06:36 UTC 版)
築地での大砲鋳造成功が伝えられると、同様に近代化を行っていた各藩に刺激を与え、反射炉を築造していた藩からは技術協力の要請もあった。安政元年閏7月(1854年9月頃)には水戸藩からの要請に応じ、力武弥右衛門が派遣された。安政2年8月23日(1856年9月21日)には長州藩が鋳造法の伝授を求めたが、研究途上であるとともに人員が不在だとしていったん断っている。ただ、後に本島が一部対応している。安政3年6月13日(1856年7月14日)には福井藩の村田氏寿が多布施反射炉を視察した。安政2年12月27日(1856年1月22日)には幕府から韮山反射炉へ技術者を派遣するよう通達が出され、安政4年1月(1857年2月頃)には田代や杉谷ら数十人が派遣された。
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