かどや‐しちろうべえ〔‐シチラウベヱ〕【角屋七郎兵衛】
角屋七郎兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/10 17:57 UTC 版)
角屋 七郎兵衛 栄吉(かどや しちろうべえ[1]/しちろべえ[2] えいきち)、慶長15年3月17日(1610年5月10日) - 陽徳元年 / 寛文12年1月19日(1672年2月17日)[1]は、江戸時代初期の貿易家。本姓は松本、名は栄吉[1]。


生涯
伊勢国飯高郡松阪・湊町の廻船問屋、第2代角屋七郎次郎忠栄の次男として生まれた[2][3]。朱印船貿易に携わる貿易家となった七郎兵衛は寛永8年(1631年)、安南(現在のベトナム)に渡った。だが、その2年後に鎖国令が出たため七郎兵衛は二度と日本に戻ることはなく、生涯を安南で過ごすこととなった[2]。鎖国下にあっても伊勢への家族や親類には書状で連絡を取り、伊勢神宮や松阪城下の寺社へも寄進し続けたという。また、安南中部の町・会安(ホイアン)にあった日本人街の長も務めた[2]。死後の1928年(昭和3年)には従五位を贈位された[4]。 七郎兵衛とその一族の慰霊碑は現在も三重県松阪市白粉町の来迎寺に残されており、松阪市の市指定文化財にもなっている[2]。
逸話
登場作品
参考文献
- 徴古館農業館(編)『贈位先賢遺品目録並講演要領』徴古館農業館、1929年(昭和4年)7月20日
脚注
注釈
- ^ ただし石灰分の多いホイアンの水で作るカオラウは非常にコシの強い麺であり、伊勢うどんとは大きく異なる。
出典
- ^ a b c 朝日日本歴史人物事典『角屋七郎兵衛』 - コトバンク
- ^ a b c d e “1-5 角屋七郎兵衛等供養碑並びに松本駝堂墓(来迎寺)”. 松阪市. 2014年8月3日閲覧。
- ^ デジタル版日本人名大辞典+Plus『角屋七郎次郎(3代)』 - コトバンク
- ^ 徴古館農業館『贈位先賢遺品目録並講演要領』、P1
- ^ 角屋七郎兵衛|世界ふしぎ発見!|TVでた蔵 at the Wayback Machine (archived 2014-08-10)
- ^ 角屋七郎兵衛の物語・ベトナムの日本人町|MovieWaker
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