親トーリーのホイッグ政治家として
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「親トーリーのホイッグ政治家として」の解説
ホイッグ党は、1806年にチャールズ・ジェイムズ・フォックスが死去した後にはいくつかの党派に分裂していた。その中でランズダウン侯爵は比較的与党トーリー党寄りの派閥を率いていた。1827年4月に成立したジョージ・カニング内閣はトーリー党政権ながらトーリーが分裂状態だったため、一部ホイッグの協力を必要とした。カニングは自由貿易推進とカトリック解放で意見が一致するホイッグ党のランズダウン侯爵派に協力を要請し、ランズダウン侯爵もこれを了承し、第6代カーライル伯爵やジョージ・ティアニー(英語版)ら自派閥議員とともに入閣した。ランズダウン侯爵ははじめ無任所相として入閣していたが、1827年7月には内務大臣となる。 1827年8月にカニングが急死。国王ジョージ4世の独断によりゴドリッチ子爵に組閣の大命が下った。またホイッグ嫌いのジョージ4世はこれ以上ホイッグの影響やカトリック解放の機運が大きくならないよう、トーリー党「プロテスタント派」のジョン・チャールズ・ヘリス(英語版)を入閣させようとしたが、ヘリスの入閣にはランズダウン侯爵が強く反対し、一時ランズダウン侯爵派が政権から離脱するムードもあったが、結局ゴドリッチ子爵がランズダウン侯爵派に多めに閣僚職・政務次官職を割り当てたことで、ランズダウン侯爵派も一応満足して政権に留まった。しかしヘリスを迎えた内閣は閣内対立を深め、国王ジョージ4世との対立も深刻化し、1828年1月には総辞職に追い込まれた。
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