チャガントカイ県
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| 中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 裕民県 |
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| 簡体字 | 裕民 |
| 繁体字 | 裕民 |
| 拼音 | Yùmín |
| カタカナ転写 | ユーミン |
| ウイグル語 | چاغانتوقاي |
| ウイグル語ローマ字転写 | Qaƣantok̡ay |
| カザフ語アラビア文字 | شاعانتوعاي |
| カザフ語キリル文字 | Юмин |
| 国家 | |
| 自治区 | 新疆ウイグル |
| 副省級自治州 | イリ・カザフ自治州 |
| 地区 | タルバガタイ地区 |
| 行政級別 | 県 |
| 面積 | |
| 総面積 | 6,106.74 km² |
| 人口 | |
| 総人口(2003) | 5.3 万人 |
| 経済 | |
| 電話番号 | 0901 |
| 郵便番号 | 834800 |
| 行政区画代碼 | 654225 |
| 公式ウェブサイト: http://www.xjym.gov.cn/ | |
チャガントカイ県(チャガントカイけん、ウイグル語:چاغانتوقاي ناھىيىسى、カザフ語:شاعانتوعاي اۋدانى、中国語簡体字:裕民县)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州タルバガタイ地区に位置する県。
歴史
紀元前6世紀-7世紀の頃、古代の呼揭部族およびサカ族(塞族)がすでにバールルク山脈一帯で遊牧を行っていた。 漢代には、この地域(現代のチャガントカイ県の地域)は西域都護府の支配下にあり、烏孫国の東部領域に属していた。
南北朝時代には突厥(テュルク)の支配下に入り、唐代には北庭都護府のもと、葛逻禄(カルルク)族の遊牧地となった。五代・遼・宋の時代には遼王朝の西突厥王府の管轄下にあり、その後は西遼(カラ・キタイ)の支配下に入った。
その後、チンギス・カンが軍を派遣して西遼を滅ぼし、この地はモンゴル帝国領となった。裕民の地はチンギス・カンの三男オゴデイの封地とされた。1252年、モンケは西域に別失八里等処行尚書省を設置して管轄させた。元の世祖クビライは諸王に領地を分封し、この地はモンケの四男宗王シリギの封地となった。至元14年(1277年)、シリギが元に反乱を起こした(シリギの乱)ため、クビライは三男秦王マンガラに命じて討伐させ、のちにこの地はチャガタイ・ハン国に帰属した。明代初期(1354年)、チャガタイ・ハン国は東西に分裂し、本地域は東チャガタイ・ハン国の支配下に入った。
清の乾隆25年(1760年)、カザフ族部落の首領アブジャ・バムビトが使者を北京に送り、バールルク山一帯で放牧を行う許可を求めた。清朝はこれを承認し、以来、この地域はカザフ族の定住遊牧地となった。光緒14年(1888年)、当地に初めて行政組織が設けられウクルダイと称され、チョチェク直隷庁の管轄下に入った。当時、カザフ族、モンゴル族など諸部族が遊牧生活を送る地域であった。
中華民国2年(1913年)チョチェク県(塔城县)に属する。中華民国22年(1933年)、チョチェク督統府が、チャガントカイ中流のグルバンゾン(古爾班宗)において、チョチェク県財政・税務・警察分局を設置。中華民国29年(1940年)、グルバンゾンに「設治局(行政管理局)」を設置し「グルバンゾン設治局」と命名。後に「チャガントカイ設治局」と改称され、引き続き塔城県の管轄下に置かれた。中華民国31年(1942年)、「チャガントカイ設治局」は「裕民設治局」に改称された。中華民国33年(1944年)、「裕民設治局」は五等県に昇格し、正式に裕民県(チャガントカイ県)となった。
1959年、裕民県政府の所在地は、チャガントカイからカラブラ川の西岸の現在の所在地に移転された。
行政区画
2鎮、4郷を管轄:
固有名詞の分類
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