袴田の批判と主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:36 UTC 版)
「日本共産党スパイ査問事件」の記事における「袴田の批判と主張」の解説
1976年、査問事件が国会で取り上げられると、改めてマスメディアの関心を集め、取材が殺到した。「週刊文春」で事件当時の袴田の供述書が公表され、事件の一端が明るみに出た。それまで宮本顕治から高く評価されてきた袴田里見であったが、この件の責任を宮本から追及された。袴田は自己批判を拒否した。 1977年(昭和52年)、当時党副委員長であった袴田が、事件に関して党や宮本を週刊誌などで公然と批判した。袴田は規律違反(党外からの党攻撃)を犯したとして同年12月30日共産党から除名処分を受けた。1978年の「週刊新潮」記事では、小畑達夫に暴行を加えて死亡させたのは宮本顕治だったと述べた。袴田は、後に著者『昨日の同志宮本顕治へ』も発行している。
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