蘭汗時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:44 UTC 版)
慕容盛はこれを聞いて悼みに龍城に戻った。これは蘭汗が慕容宝を殺した後の懺悔と同情心に期待したためと、蘭汗の娘を娶っていることに頼った行動である。蘭汗の兄弟は慕容盛を殺したがったが、結果的に蘭汗の娘と妻の乙氏の哀願で慕容盛は許され、侍中・左光禄大夫とされた。蘭汗は太原王の慕容奇(慕容楷の子、蘭汗の外孫)も殺さなかったが、慕容奇は慕容盛と謀って龍城を出て建安で挙兵した。慕容盛はその間に蘭堤が慕容奇と謀っていると蘭汗に教えた。この時、龍城は旱魃になっていたため、蘭汗は燕の諸廟に詣で、慕容宝を殺した罪を蘭加難に委ねた。これらの件を聞いて蘭堤と蘭加難は怒って反乱した。この頃、太子の蘭穆は慕容盛の殺害を蘭汗に勧めたが、蘭汗は慕容盛が仮病を使ったので止めた。7月、蘭穆が蘭堤や蘭加難の反乱を鎮めると、宴を開き酔いつぶれて、慕容盛の集めた兵に殺された。慕容盛は自ら長楽王と称し、帝位を代行した。8月、慕容盛は黄龍で皇帝に即位、改元して建平とした。
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