藤田鉄工所
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藤田鉄工所(ふじたてっこうしょ)は、1950年代まで愛知県名古屋市に存在したオートバイメーカーである。
熱田砲兵工廠の技術者だった藤田精次郎が1912年7月に独立開業したのが始まりであり、開業当初は自転車附属品の製造販売が主だった[1]。1920年代に合資会社藤田鉄工所に改組した後、1939年に株式会社藤田鉄工所となる[2]。
1935年に歯車形削り盤の国産化に成功し、商工省主催の工作機械工業振興展覧会にも出品している[3][4]。1936年時点で50人の職工を擁し、名古屋市の主力機械製造工場の一つに数えられていた[5]。陸軍航空本部管理工場でもあった[2]。
戦後は軍需分野から事業を転換、藤田鑑が社長となり、1948年からオートバイ開発に着手する[2][6]。なお、1946年に藤田産業株式会社と商号を変更したが、1952年に再び株式会社藤田鉄工所へと商号を戻している[2]。
1950年にオートバイ「オートビット」の販売を開始する[6]。オートビットは、1952年3月に開催された名古屋TTレースでチーム賞8位、同年7月に開催された富士登山軽オートバイレースで1位に入賞するなどの記録を残す[6][7]。
国産オートバイメーカーとして一定の存在感を示していたが、ホンダ、ヤマハなどとの市場争いに入り込めず業績不振に陥り、1958年に1億円超の負債を抱えて倒産する[6]。同年にオートビット事業を承継したオートビット自動車工業株式会社が設立されるが[8]、翌1959年の伊勢湾台風によって工場が浸水し、以降、オートビットの生産は途絶える[6]。
脚注
- ^ 日本産業通信社 (1934), p. 31.
- ^ a b c d 小型自動車新聞社 (1958), p. 55.
- ^ 日本産業調査会 (1942), pp. 295–296.
- ^ 名古屋経済研究所 (1942), pp. 78–79.
- ^ 沢井実 (2017), p. 58.
- ^ a b c d e 冨成一也 (1999), pp. 188–193.
- ^ 蔦森樹 (1987), pp. 143–144.
- ^ 三栄書房 (1959), p. 378.
参考文献
書籍
- 日本産業通信社 編『大日本産業史』日本産業通信社、1934年。doi:10.11501/1234744。全国書誌番号:47008572。
- 日本産業調査会『国産重要機械銘鑑』日本産業調査会、1942年。doi:10.11501/1124472。全国書誌番号: 46017469。
- 小型自動車新聞社「業界重要日誌」『躍進する小型自動車業界の歩み』小型自動車新聞社、1958年、54-63頁。doi:10.11501/2487107。全国書誌番号: 59000659。
- 蔦森樹『進駐軍モーターサイクルクラブ : Free wheelin' in the '50s』山海堂、1987年8月。ASIN 4381075749。doi:10.11501/12441333。 ISBN 4-381-07574-9。 OCLC 674572362。全国書誌番号: 87052647。
- 『名古屋オートバイ王国: メイド・イン・ナゴヤが駆けぬけた時代』冨成一也 監修、郷土出版社、1999年12月。ASIN 487670130X。doi:10.11501/13912244。 ISBN 4-87670-130-X。 NCID BA55284534。 OCLC 675842132。全国書誌番号: 20027547。
論文
- 名古屋経済研究所『産業之日本』第16巻第4号、名古屋経済研究所、1942年4月、78-79頁、doi:10.11501/1506699。
- 「自動車界の動き」『モーターファン』第145号、三栄書房、1959年1月、378頁、doi:10.11501/2304280。
- 沢井実「下請工場の成長―1930年代の名古屋市を事例に」『南山大学紀要『アカデミア』社会科学編』第12号、南山大学、2017年1月31日、57-76頁、doi:10.15119/00001020、 ISSN 2185-3274、 OCLC 836375576。
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