藤枝焼津間軌道会社
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藤枝焼津間軌道会社(ふじえだやいづかんきどうかいしゃ)は、かつて静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市の一部)大手と同郡焼津村(現・焼津市の一部)西町の間を結ぶ人車軌道を経営していた企業である。なお、開業当初は藤枝焼津間軌道の名称であったが、後に焼津藤枝間軌道(やいづふじえだかんきどう)に改められた。動力は基本的に人力であったが、唯一の急勾配区間である、瀬戸川の堤防を登る区間においては馬が車両を牽いた[1]。
- ^ 森 (1997) 51頁
- ^ 『静岡大務新聞』明治24年7月25日付には「小川(ルビ: おがわ)総八郎」とあり(森 (1997) 50頁)委細不明であったが焼津市史編纂において『志田地区人物誌』『小川町誌』に片岡総八郎なる者が「トロツコ道」「人車木道」を敷設し便を図ったとあり他の記述も内務省史料等と一致することが発見された。私財を投じた、ともある。
- ^ この「木道」という言葉について、森 (1997) 55頁においては、樫の木のような堅い木製のレールが使われていたのだろうと推測している。また、strap-iron rail (あるいは単に strap rail) という、木に鉄を付けたレールが鉄道の初期には使われている。
- ^ 『静岡大務新聞』明治24年7月25日付
- ^ 美濃 (1996)
- ^ 高山 (2004) 1頁
- ^ 高山 (2004) 1頁によれば、『静岡民友新聞』明治31年1月16日付に「焼津藤枝間軌道運転広告」と題する広告が「焼津藤枝間軌道担理者川守亀吉」の名前で出されており、それまで休業中であった同軌道の運転を1月17日から開始する旨告知されていることから、川守亀吉への譲渡後、廃止されるまでの間に営業を一時休止していた時期もあったことが確認できる。
- ^ 『静岡大務新聞』明治24年7月25日付
- ^ 同書刊行後の2015年4月に静岡県道381号島田岡部線となっている。
- ^ 国土地理院地図・空中写真閲覧サービスの、1946年3月26日に米軍の空撮した空中写真で現状の前の状態が確認できる。
- ^ 森 (1997) 54頁
- ^ この「櫃」は茶箱(茶道でいう「茶櫃」ではなく、茶農家からの出荷などに使うもの)を数える助数詞。大務新聞の記事には17貫とあり、茶葉16貫(60kg)入りのそれ。
- ^ 森 (1997) 48頁
- ^ 森 (1997) 50頁
- ^ 森 (1997) 52頁
- ^ 今尾 (2008) 32頁
- ^ “日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補 7号 東海” - 鉄道フォーラム、2020年7月25日閲覧。
- 1 藤枝焼津間軌道会社とは
- 2 藤枝焼津間軌道会社の概要
- 3 その他
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