藤原武良自とは? わかりやすく解説

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藤原武良自

(藤原武良士 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 07:07 UTC 版)

 
藤原 武良自
時代 奈良時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 武良士、武良志、良因
官位 従五位下丹後守
主君 孝謙天皇淳仁天皇
氏族 藤原南家
父母 父:藤原豊成、母:路虫麻呂の娘
兄弟 武良自継縄乙縄縄麻呂中将姫
長道長山
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藤原 武良自(ふじわら の むらじ)は、奈良時代貴族。名は武良士または武良志とも記される。藤原南家右大臣藤原豊成の長男。官位従五位下丹後守

経歴

天平勝宝6年(754年従五位下叙爵し、左京亮に任ぜられる。同年11月畿内及び七道巡察使が派遣されると、武良自は北陸道巡察使に任命される。天平勝宝9歳(757年)5月に叔父藤原仲麻呂紫微内相に任ぜられて権力を掌握し[1]、それまで右大臣として太政官の首班に立っていた父・豊成が政権の外に押し出され気味となると、同年6月に武良自は伯耆守として地方官に転じる。結局、7月に発生した橘奈良麻呂の乱連座して、豊成は右大臣を罷免されている[2]

天平宝字3年(759年)には、藤原仲麻呂の子の真先訓儒麻呂(いずれも従四位下)・朝狩正五位下)が次々と昇進していく中[3]、武良自は昇進が叶わないまま丹後守に転じて引き続き地方官を務めた。

天平宝字5年(761年)に長野公足が丹後守に任ぜられていることから[4]、それまでに武良自は地方官の任期を待たずに丹後守を辞したらしい。その後、『六国史』に武良自の叙位任官記録はないが、『尊卑分脈』では良因と名乗っていたことが記されていることから、出家した可能性もある[5]

官歴

続日本紀』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 続日本紀』天平勝宝9歳5月20日条
  2. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月12日条
  3. ^ 『続日本紀』天平宝字3年6月16日条
  4. ^ 『続日本紀』天平宝字5年10月1日条
  5. ^ 高島[1983: 243]

出典

  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年。
  • 黒板勝美 編『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年。
  • 高島正人「奈良時代中後期の藤原南家」『奈良時代諸氏族の研究 : 議政官補任氏族』吉川弘文館、1983年。



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