藤原光俊 (御子左流)
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藤原 光俊(ふじわら の みつとし、治承3年(1179年) - 没年不詳)は、鎌倉時代の公家。藤原北家御子左流、参議・藤原光能の三男[1]。官位は従二位・大宰大弐。
経歴
後白河院政期末の建久元年(1190年)叙爵。建久5年(1194年)一条高能の申任により讃岐守任ぜられ、これを建久10年(1199年)まで務めた。
その後しばらく散位となり、承元元年(1207年)宮内少輔に任ぜられるが、翌承元2年(1208年)従五位上への昇叙に際してこれを止められ、承元5年(1211年)には左京権大夫に任官するも、翌建暦2年(1212年)正五位下への叙位に際して再び官職を停められるなど、後鳥羽院政期では官職に恵まれなかった。
承久3年(1221年)承久の乱終結後まもなく院分で丹波守に任ぜられると、同年中に従四位上・右馬頭、翌承久4年(1222年)正四位下・右兵衛督に叙任されるなど、後高倉院政期に入ると次々と官職を得て昇進。元仁元年(1224年)には従三位に叙せられて公卿に列した。
父・光能と異なり参議任官は叶わなかったが、その後も右兵衛督を務め、安貞2年(1228年)正三位に昇叙されている。寛喜3年(1231年)子息の光成を右近衛少将に任じる代わりに、光俊は右兵衛督から大宰大弐に遷る。嘉禎2年(1236年)大弐の任を終えると従二位への叙位を受けた。
建長元年(1249年)8月16日に71歳で出家した。法名は静空。
官歴
『公卿補任』による。
- 建久元年(1190年) 12月29日:従五位下
- 建久5年(1194年) 7月30日:讃岐守(高能卿申任之)。9月2日:重任
- 建久10年(1199年) 3月1日:停任
- 承元元年(1207年) 12月9日:宮内少輔
- 承元2年(1208年) 2月13日:従五位上、止輔
- 承元5年(1211年) 正月21日:左京権大夫
- 建暦2年(1212年) 12月10日:正五位下、止権大夫
- 建保3年(1215年) 12月15日:従四位下
- 承久3年(1221年) 7月28日:丹波守(院分)。8月29日:兼右馬頭。11月16日:従四位上(臨時朔旦)
- 承久4年(1222年) 正月20日:正四位下(朝覲行幸)。12月21日:右兵衛督、守如元
- 元仁元年(1224年) 12月17日:従三位、督如元
- 安貞2年(1228年) 3月20日:正三位
- 寛喜2年(1230年) 9月1日:服解(母)
- 寛喜3年(1231年) 正月29日:復任。4月14日:大宰大弐、辞督(以男左兵衛佐光成申任右少将)
- 嘉禎2年(1236年) 2月30日:止大弐、給下総国。12月18日:従二位
- 建長元年(1249年) 8月16日:出家(法名・静空)
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
- ^ 『公卿補任』
参考文献
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
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