(新)藝備銀行設立に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:26 UTC 版)
「広島合同貯蓄銀行」の記事における「(新)藝備銀行設立に参加」の解説
戦時期の「一県一行」政策にともない、当行は呉銀行・(旧)芸備銀行・備南銀行・三次銀行との合併をすすめ、第二次世界大戦末期の1945年5月1日、新立の(新)芸備銀行が発足して解散となり、下柳町の本店は芸備銀行下柳町支店となった。当行の解散により、広島県下に本店をおく貯蓄銀行は消滅した。芸備銀行は戦後の1950年に広島銀行に改称し、現在に至っている。
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(新)芸備銀行設立に参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 00:01 UTC 版)
「三次銀行」の記事における「(新)芸備銀行設立に参加」の解説
小規模ながら地元・三次に基盤をおく健全経営を続けていた当行は、他行との統合に消極的な態度をとり、大正末年に三次実業銀行(和田銀行の後身)の資金繰りが悪化した際に監督官庁より同行との合併を勧められるも拒否し、その後第二次世界大戦中の1942年頃、「一県一行」政策にもとづき(旧)芸備銀行との合併を勧められた際にもこれを断り独自経営を貫いた。 しかし戦争末期になると銀行合同を求める国・県の圧力はますます強まり、このため当行は(旧)芸備銀行・広島合同貯蓄銀行・呉銀行・備南銀行の4行とともに(新)芸備銀行の新立に参加し、1945年5月1日の同行設立に際して解散した。当行の解散により三次に本店をおく銀行は消滅したが、元専務の吉中が新銀行の取締役となり地元経済との連絡役を務めた。。
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