蒸切り干し法の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:13 UTC 版)
明治時代になると、静岡県豊田郡大藤村の大庭林蔵と稲垣甚七が、それぞれ切り干し芋の加工法の改善に取り組んだ。その結果、1892年(明治25年)頃、林蔵と甚七とが、サツマイモを煮るのではなく蒸かすという加工法をそれぞれ考案した。この手法は「蒸切り干し法」と呼ばれており、切り干し芋の大量生産が可能となった。 その結果、冬の保存食として活用されたり、子供向けの間食としても喜ばれたりと、用途が拡大していった。北海道や東北地方などにも出荷されるようになり、全国的に広まることになった。1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、食糧不足が深刻化していったが、静岡県の住民の食生活を支えたのは切り干し芋だった。
※この「蒸切り干し法の誕生」の解説は、「切り干し芋」の解説の一部です。
「蒸切り干し法の誕生」を含む「切り干し芋」の記事については、「切り干し芋」の概要を参照ください。
- 蒸切り干し法の誕生のページへのリンク