范雎登用とは? わかりやすく解説

范雎登用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:33 UTC 版)

昭襄王」の記事における「范雎登用」の解説

魏冄自分権力失墜するのを恐れ遊説者が入国することを嫌っていた。昭襄王謁者であった王稽は魏で范雎会い、その賢を見抜き、秦に連れて来ていた。王稽昭襄王范雎何度推挙したが、登用されなかった。 紀元前271年に、斉を攻めたが、これは魏冄自身封邑であった陶の領地広めるためであったこの際范雎上書し、「明君政治では、功労ある者は必ず褒賞され、能力のある者は必ず登用されるいいます。私が用いられないのは、私が愚鈍なため、王の心にふれて訴えものがないためでしょうか。まさか私を推す者が賤しいために用いないということではありますまい」と言った。 これを聞いた昭襄王大い喜び登用しなかったことを王稽詫び范雎召した范雎召した際の王の出御で、宦官が「王のお出ましと言った范雎は、「秦には国王などいるはずがない。秦にその人ありと聞くのは、ただ太后と穣侯だけだ」と言った昭襄王はこれを聞き范雎迎え入れまず詫び、「私は早くから先生教えを乞おうと思っていた。謹んで主客対等の礼をもってお話賜りたいと言った。しかし范雎はこれを辞退し群臣去った後に親しく会話した。そこで昭襄王范雎拝して客卿とし、兵事相談した。これ以降昭襄王范雎日一日親しみ以降、その進言採用されるようになった紀元前269年に、秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討った閼与の戦い)。 紀元前267年長子悼太子人質出していた魏で薨去

※この「范雎登用」の解説は、「昭襄王」の解説の一部です。
「范雎登用」を含む「昭襄王」の記事については、「昭襄王」の概要を参照ください。

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