若松城下への侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:59 UTC 版)
詳細は「母成峠の戦い」および「会津城籠城戦」を参照 二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。 二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。8月21日(10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロメートル余りを急進して8月23日(10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を見て若松城に戻り敵に捕まれば武士の恥と白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃した 。
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