芝の成功と大島移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 06:29 UTC 版)
「太田近江大掾藤原正次」の記事における「芝の成功と大島移転」の解説
安左衛門(のちの太田六右衛門)が働く田中七右衛門の金屋は当初、経営難であった。「深川金屋之興并芝店之由緒」によれば、芝での鋳物は湯が悪く、質が悪いものが増え経営が悪化、炭や古鉄の仕入れにも困ったという。しかし明暦3年(1657年)の大火で鍋釜の需要が増加、古鉄の相場が下る一方で鍋釜の価格は上り、繁盛店に転じたとされる。 しかし翌年、近隣で火事が起こり火元が金屋だと疑われた。事実無根となったが金屋の近隣住民は増す一方で鋳造に向かないと判断、都市化の進む芝から高輪へと移転した。しかし高輪では運搬に必要な船の便が悪かったため、万治2年(1659年)さらに江戸深川の大島村へ再移転したという。 移転理由について幕府編纂の『御府内備考』では、芝の店の土地が増上寺拡張の御用地となったため、万治2年(1659年)に深川上大島町(現・江東区大島)に移転したと記されている。
※この「芝の成功と大島移転」の解説は、「太田近江大掾藤原正次」の解説の一部です。
「芝の成功と大島移転」を含む「太田近江大掾藤原正次」の記事については、「太田近江大掾藤原正次」の概要を参照ください。
- 芝の成功と大島移転のページへのリンク