育英黌農業科の開校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:43 UTC 版)
1885年、榎本と伊庭想太郎らが中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立。この徳川育英会を母体に、1891年(明治24年)3月6日、東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は永持明徳)。育英黌は、農業科(現在の東京農業大学)、商業科、普通科の3科があったが、甲武鉄道の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、小石川区大塚窪町(現在の文京区大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎)。更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭)。1894年に徳川育英会から独立したが、毎年の入学者が50人を超えず生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。しかし農学校の評議員であった横井時敬が反対し運営を引き継ぐ。榎本は手を引き、1897年(明治30年)、農学校は大日本農会に移管された。
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