筧重忠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 筧重忠の意味・解説 

筧重忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/10 00:24 UTC 版)

 
筧 重忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正9年(1512年[1]
死没 天正16年(1588年)?[1][2][3]
別名 平三郎、図書[4][3]
戒名 西道[3]
墓所 愛知県岡崎市羽栗町善城[2]
主君 松平清康広忠徳川家康
氏族 藤原姓筧氏[3]
父母 筧正治[4][3]
兄弟 重忠正重正則[3]
重成、芝田刑部の妻[3]
テンプレートを表示

筧 重忠(かけい しげただ)は、戦国時代三河国武将松平氏徳川氏)の家臣。

経歴

筧氏は伊勢国度会郡山田の人で、重忠の祖父正綱の代に三河国額田郡六名に移り松平氏に仕えたという[5]

重忠は岡崎城松平清康に、その没後はその子広忠に仕える。天文16年(1547年尾張国織田氏に通じて広忠に敵対した上和田城主松平忠倫の暗殺を命じられ、弟の正重とともに上和田に赴いて忠倫に偽って降り、その寝首を掻いた。重忠は広忠より「刺した刀を引き抜くと相手が声を上げて騒ぎになるから、刺した際には刀を忠倫の体から抜いてはならない」と命じられていたが、暗殺に用いた脇差は広忠より賜ったものだったためこれを惜しんで持ち帰ろうとし、広忠の懸念通り上和田城中は騒ぎとなったが、ついに重忠兄弟は上和田の追跡を振り切り岡崎に帰参したという。この功によって額田郡羽栗幡豆郡野場の地を賜った。また暗殺の証として持ち帰った忠倫佩刀の平安城長吉の刀を与えられたという[1][4][6][2][3]

広忠没後はその子の元康(徳川家康)仕え、永禄3年(1560年)嫡子重成や弟の正重・正則らとともに桶狭間の戦いに従軍し、丸根砦攻略に参戦[1][3]。永禄6年(1563年三河一向一揆が蜂起すると、筧氏は本願寺門徒だったが重忠父子は一揆に与せずこの鎮圧に貢献した。この戦いで重忠が戦没したとする説もあるが[注釈 1]、筧氏の系図類はなお長命して天正16年(1588年)に没したとしている[2][3]

脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ 寛政重修諸家譜』においても、重忠の三河一向一揆以後の死亡記事以外の経歴を一切記していない[3]

出典

  1. ^ a b c d 上田 et al. 2001, § 筧重忠.
  2. ^ a b c d 林 1981, § 羽栗村.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』, pp. 23–24.
  4. ^ a b c 左右田 1982, pp. 303–304.
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』, p. 23.
  6. ^ 林 1981, § 野場村.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  筧重忠のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「筧重忠」の関連用語

1
30% |||||

2
筧正重 百科事典
12% |||||

筧重忠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



筧重忠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの筧重忠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS