針崎の戦いとは? わかりやすく解説

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針崎の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 06:20 UTC 版)

針崎の戦い(はりさきのたたかい)は、1564年永禄7年1月11日)に三河国針崎(現・愛知県岡崎市針崎町)で行われた合戦三河一向一揆における最も激しい戦闘の一つで、徳川家康一向宗門徒勢力との間で戦われた。

背景

永禄6年(1563年)、三河では浄土真宗門徒が徳川家康に対して蜂起し、三河一向一揆が勃発していた。針崎土呂地区の門徒らは勝鬘寺に結集し、永禄7年(1564年)正月、家康方の上和田砦を攻撃するため進軍を開始した[1]

戦闘の経過

1月11日、一揆勢800余人が蜂屋半之丞筧正重、本多善蔵を中心に上和田砦の木戸口に押し寄せた。これに対し家康軍は砦から杉浦勝吉杉浦吉貞松山田中市川や、大久保忠世大久保忠勝らが突撃した。忠勝は右目を射られ、忠世も負傷した折、六名方面から土屋重治、筒井忠俊ら10騎も援軍に馳せ来た[2]

家康自らも出陣し、宇津興五郎が馬口を取る中、筧重忠内藤信成阿部正勝植村家政植村正勝内藤正成本多忠勝鳥居元忠、鵜殿長祐、天野康景平岩親吉米津常春、小栗大六、松平弥右衛門、榊原忠政、伊奈市左衛門、渥美友勝今村勝長らが次々と参戦した[2]。一方、勝鬘寺からは増援の一揆勢が到着し、家康も銃弾2発を受けた[2]

激戦の中で中根喜蔵と渡辺守綱が戦い双方深傷を負った。その守綱を討とうとする鵜殿十郎三郎に対し父・渡辺高綱が駆け付け討つが、川澄文助らに攻められた高綱は、甥の内藤正成に射られた傷が原因で戦死した。また、土屋重治は家康を守り矢を受けて討ち死にした[2]

日暮れまで続いた戦闘は双方に多くの死傷者を出し、一揆勢は久世長宣、渡辺高綱、石川知綱ら数十名が戦死し、家康方も鵜殿十郎三郎、宇津興五郎ら5名が討ち死にした[2]。この戦いは一揆戦の中で最も烈しい戦いとされた[2]。戦場となった地域はかつては蓮池に囲まれた要害で、 蒲掛 がまかけの地名で呼ばれ、勝鬘寺周辺に針崎古戦場の痕跡が残る[1]

史跡

  • 針崎古戦場
  • 勝鬘寺:一揆勢の拠点となった寺院

関連項目

脚注

  1. ^ a b “針崎古戦場”. 日本歴史地名大系. 平凡社. 2024年7月18日閲覧.
  2. ^ a b c d e f 岡崎市史 第8巻. 岡崎市. (1929). p. 208. https://dl.ndl.go.jp/pid/1240764/1/208 



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