箏曲家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 08:08 UTC 版)
「野坂操壽 (2代目)」の記事における「箏曲家として」の解説
1965年に初めてのリサイタルを開催した。また、同年より1982年まで日本音楽集団の団員として活動した。1969年に二十絃箏を開発し、1991年には二十五絃箏を発表するなど、伝統に囚われず新しい楽器の開発にも取り組んだ。さらに、1994年からは作曲家の伊福部昭にも師事した。後進の育成にも力を注いでおり、1996年より2006年にかけて、母校である東京芸術大学にて音楽学部の講師を非常勤で務めた。桐朋学園芸術短期大学においては、芸術科の教授を務めた。指導した者の中からは、秋岸寛久、かりんといった箏曲家などを輩出している。2002年、初代操壽が亡くなった。それに伴い、翌年、二代目操壽を襲名した。その後も本名の「野坂惠子」名義を用いることもあったが、2007年より演奏に関する全活動を「野坂操壽」名義で行うことにした。2019年8月27日、急性骨髄性白血病により81歳で死去した。
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