第3回 方法論としてのアナーキズム――フランシス・コッポラと『地獄の黙示録』
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「同時代としてのアメリカ」の記事における「第3回 方法論としてのアナーキズム――フランシス・コッポラと『地獄の黙示録』」の解説
『海』1981年11月号掲載。 「この映画は①思想の欠落した部分から始まった②ヴェトナム戦争そのものとは本質的に無関係な映画であるから」「それ故に『地獄の黙示録』は優れた作品と成り得たのである」と村上は述べる。 『地獄の黙示録』はいわば巨大なプライベート・フィルムであるという説を村上は採る。そしてプライベート・フィルムの定義を「質は高いが、レンジは狭い」「従来のドラマツルギーにのっとったドラマの広がりが希薄である」「そのレンジの狭さの中にこそリアリティーがある」と述べている。 幾つかのシーンとダイアローグが気になって4回も見たことが語られている。なかでもいちばん強く印象に残っているのは "Terminate with extreme prejudice" という台詞が出てくるナ・トラン司令部のシーンだという。 後年、『地獄の黙示録』について村上は次のように述べている。「僕は『地獄の黙示録』の圧倒的なファンです。もう20回くらいは見たと思います。『圧倒的な偏見をもって断固抹殺する』というトロくんの台詞は、『地獄の黙示録』の中の台詞を引用しました。」「ジョン・ミリアス、僕は昔から変わらず好きです。(中略) 監督した作品も良いけど、脚本家としても一流です。『地獄の黙示録』だって、脚本家ミリアスのテイストが満載されていますよね。そのラディカルさ(コレクトネス皆無)をもっともっと評価されて良い人だと思うんだけど。そのうちにミリアス論を書いてもいいですね。」
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