第23代外務大臣
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1908年6月、西園寺公望首相が辞意を表明し、7月14日、内閣総辞職し、桂太郎が第2次桂内閣を組織、小村は再び外務大臣に就任した。小村はロンドンからウィーンとサンクトペテルブルクを経て、シベリア鉄道を用いて日本に帰国した。ウィーンではバルカン半島情勢を理解するために見聞を広めることに努め、サンクトペテルブルクではかつての好敵手であったセルゲイ・ウィッテに再会した。小村はウィッテに、敵対した日露両国はいまや友好国であり、ポーツマス会議のことも振り返れば夢のようであると述べたのに対し、ウィッテは、会議当時、自分の交渉は大成功ともてはやされ、小村は国民から大きな批判を受けたが、しかし、いまや評価は逆転していると述べた。 帰国した小村は、桂首相に具申して「帝国ノ対外政策方針」を提出、9月25日、これにもとづいて閣議決定がなされた。それは、ドイツ帝国を除く列国との多角的同盟・協商網の維持を目指すというものであった。小村は、日英同盟こそ「帝国外交の骨髄」としながらも、アメリカとの関係を良好たらしめる必要があり、排日移民問題を緩和しつつ、協商関係を結ぶ必要ありとした。対清外交については従来、利権関係が複雑で必ずしも進展しなかったこともあったが、小村は間島問題など未解決の6案件を一括化してパッケージ・ディールを行うべしとの方針を明確に打ち出した。
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