第一回攻囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:13 UTC 版)
「アンティオキア攻囲戦」の記事における「第一回攻囲戦」の解説
11月半ばには、ボエモンの甥のタンクレードが増援に現われた。またジェノヴァ共和国の船団がアンティオキア付近の聖シモン港に入港して多数の食糧や補充品を運び込んだ。攻囲戦は思いのほか長引き、12月にはゴドフロワが病に倒れ、充分だったはずの食糧も近づく冬を前に底をつき始めた。12月末、ボエモンとフランドル伯ロベールは2万人ほどの兵を引き抜き糧食徴発のために南に向かった。包囲する兵力が少なくなったことを見抜いたヤギ=シヤーンは、12月29日に聖ゲオルギオス門から出撃し、川向こうのタレンキ村にあったレーモンの宿営に突撃を仕掛けた。レーモンはこれを撃退することはできたものの城内に突入することはできなかった。その間、ボエモンとロベールの軍は、アンティオキア救援にやってきたダマスカスのシリア・セルジューク朝の王ドゥカークの軍と衝突していた。十字軍側はこの戦いには勝ったが、食糧を充分略奪・徴発できないままアンティオキアに引き返さざるを得なかった。 12月は双方にとって不吉な出来事が起こったまま過ぎていった。12月30日には地震があり、それから数週間は寒冷な気候と季節はずれの豪雨に襲われた。十字軍は地震におののき、ドゥカークも地震や悪天候のため十字軍とはそれ以上戦わずしてダマスカスへ帰っていった。
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