立花氏の名忠臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 10:08 UTC 版)
立花道雪の遺言で「戦場の地に甲冑着け埋葬せよ」との命に家臣共々が頭を抱えていた時に、殉死しようとする家臣を説得し無事に丁重に埋葬する事に貢献した。道雪死後もその養子の立花宗茂を助け、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため改易された主君の宗茂に随従して江戸に赴いた。慶長8年(1603年)、宗茂が将軍・徳川家康に見出されて棚倉藩1万石に封じられると、江戸で将軍に近侍する宗茂に代わって、子の惟次と共に藩内の行政を担当した。奥州赤館で歿した。享年86歳。生涯三十数度の戦場で一度の負けもなかったという。
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