積善寺 (岐阜県白川町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/10 11:30 UTC 版)
| 積善寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 岐阜県加茂郡白川町三川 |
| 山号 | 慶雲山 |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
| 開山 | 維天継縦 |
| 開基 | 遠山友政 |
積善寺(しゃくぜんじ)は、岐阜県加茂郡白川町三川[1]に存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は慶雲山。
歴史
創建時期は不詳である。
天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、
帰依していた加茂郡の正傳寺の維天継縦を開山として招請したが、維天継縦は高齢であったため、
代わりに武儀郡関村の梅龍寺八世で、(加茂郡加治田村の龍福寺二世)でもあった夬雲玄孚を推挙した。
夬雲玄孚は梅龍寺と龍福寺の両方の寺を兼帯し、そのうえ大本山妙心寺の百八世ともなっていたので、雲林寺の創建については彼の高弟の中華玄等に任せた。
元和元年(1615年)、初代苗木藩主の遠山友政は、苗木城の傍らに菩提寺として雲林寺を開基した。
白川町誌によると、遠山友政は、維天継縦に対して隠居寺が必要であれば、苗木藩領の土地を選ぶように頼んだ。[2]。
八百津町史史料編によると、維天継縦が、苗木領内に隠棲することを懇望したので、この地に積善寺を建立して住した[3]。
積善寺の檀家は、犬地村と上田村[4]の大半であった。
明治3年(1870年)、苗木藩の廃仏毀釈によって積善寺は廃寺となり、十三世住持は伊努知神社の神官 兼、大社教の小講義となって、吉田省三と称した。
明治三 庚午年 十一月 御一新ニ付 積善寺 帰農ニ付 両村 立会ノ上 上田省三 萬事受ク 上田村 里正[5] 伊佐治彦太郎 犬地村 里正 神戸良三郎 犬地村 檀家總代 今井鋤次郎 四名 世話人 安江覺一郎 外 一名、上田村 檀家總代 今井丈吉 外 一名、世話人 中島庄介 外 一名、犬地村 五人組頭 吉田磯吉 外 三名、上田村 五人組頭 伊佐治兵衛 外一名、犬地村 組頭 磯部逸八、小池元右衛門
過去帳は、明暦2年(1656年)2月から、廃仏毀釈の年まで3冊に記録してあったが、
大正2年(1913年)8月11日に発生した犬地本郷の火災は、過去帳と共に古記録を保管していた庄屋の家にも及んだため、
過去の経緯は不詳となっている。
積善寺の跡には維天継縦の無縫塔の墓が残っている。
歴代住持
- 開山 維天継縦 元和2年6月15日没
- ニ世 雲岫祖慶 〇〇〇〇年3月15日没
- 三世 単山桂傳 延宝3年3月8日没
- 四世 了外宗智 〇〇〇〇年〇月10日没
- 五世 渓翁座元 享保14年9月18日没
- 六世 湛然淵黙 寛延3年10月18日
- 七世 大法全利 安永2年3月29日
- 八世 文明能公 〇〇〇〇年8月20日没
- 九世 石翁座元 文化元年11月20日
- 十世 朴道全拙 文政10年1月29日
- 十一世 淨山䄈清 弘化5年8月18日
- 十ニ世 貫芳自薫 慶応3年7月13日
- 十三世 吉田省三 明治6年9月15日
参考文献
- 『白川町誌 通史編』 第三編 生活と文化 第五章 宗教 四 元蘇原村 ▽慶雲山積善寺 p886-p887 白川町誌編纂委員会 1968年
- 『八百津町史 史料編』 第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 一五 犬地積善寺 p231-p232 八百津町史編纂委員会 昭和47年
脚注
- 積善寺_(岐阜県白川町)のページへのリンク