福羽逸人と菊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 21:15 UTC 版)
隣家に毎年菊花壇を設けて菊自慢をしていた人がいたことから、早くから、菊は変化に富み観賞花であることを知り、菊好きになっていったと思われる。学農社に入った頃、薩摩藩出身の司法官僚で、民法典編纂委員をも務めた水本成美に菊の栽培、鑑別に関する薫陶を受けたとされるが、氏は駿河台の自邸に菊花壇を設けて近隣住民に観覧させる菊栽培家としても著名であった。福羽は明治24年に宮内省御局技師に異動し、内匠寮兼務となって植物御苑の再興を果たした後、明治31年末には内匠寮技師、新宿植物御苑掛長を拝命し、その責任者となったが、その頃、以前から番町の自宅の菊を植物御苑に持ち込んで試験栽培していた中から大造りに適した優良種を作出するなど、菊の栽培技術を向上させていたという。このような福羽の努力により、明治33年にパリで開催された万博ではフランスの菊を使用し、また日本とは異なる気候などの条件下ではあったが、市川之雄らとともに苦心して仕立てた大造菊は各国の審査官を驚嘆せしめたようである。
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