県立医学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 05:33 UTC 版)
1877年12月、長崎病院医学場は県に移管され県立長崎医学校が設立、ついで1883年5月には医学校通則に準拠し長崎県立甲種医学校と改称した。しかし1887年、勅令により地方税による医学校運営費の支弁が打ち切られることになり、この結果、財政難による医学校の廃止は決定的になった。しかし同年8月8日、熊本の第五高等中学校が長崎に「医学部」を設置することになり、廃止決定となった長崎医学校の施設・校舎がそのまま同校「医学部」に移行、医学校長であった吉田健康もそのまま「医学部」長に就任、1888年3月末で長崎県立甲種医学校は廃止された(これ以降、長崎医科大学設立までの沿革については長崎医科大学 (旧制)へ)。
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