皆川俊宗の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 23:39 UTC 版)
広綱は生来病弱であり、元亀年間には花押も押せないほどにまで病状が悪化していた。宇都宮氏の重臣皆川俊宗はこの状況を利用して宇都宮城乗っ取りを計画する。武田信玄、北条氏政による甲相同盟の締結によって、下野南部が北条、武田の二大勢力によって脅威に晒されることになったことが俊宗による宇都宮城乗っ取りが起こった主な原因である。 元亀3年(1572年)1月14日の夜、上杉謙信との外交を任されていた宇都宮氏の筆頭重臣岡本宗慶が俊宗によって暗殺され、その翌日、宇都宮城は皆川氏によって占拠された。占拠されてから約1年間の間は皆川俊宗が宇都宮氏の主導権を握っており、俊宗は徐々に後北条氏寄りの立場を取るようになる。このために一時的だが、宇都宮氏は北条氏に屈した形となった。 元亀4年(1573年)には同盟国の佐竹義重らとともに、皆川氏討伐を行っている。
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