申年がしんの伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 16:29 UTC 版)
前述のように、申年がしんの悲惨さは長く人々の心に残り、近年まで語り伝えられた。1975年(昭和50年)発刊の因幡地方の伝承を集めた『むかしがたり』(著:山田てる子、毎日新聞鳥取支局)に、申年がしんについて紹介されている。著者山田てる子(1902年-1983年)は子どもの頃に、祖母に寝かしつけてもらう際、この悲惨な昔話を聞いたという。 その年(天保7)は前々からおかしい天気が続いていたが、その年にはいよいよひどくなり、ひな祭りの時分になっても雪が降り続き、田にも畑にも出ることができないでいた。五月になっても田の水に氷が張るような有様だった。土用近くになっても、綿入れが手放せないような状態だった。この頃になってようやく田植えはしてみたが、稲にもならず、秋には一粒の米もとれなかった。木にも実がならず、口に入れられるものなら、木の芽・草の根など何でも食い尽くしてしまい、しまいには座敷に敷いた荒筵まで叩いて粉にして食べた。村々の年寄りや子どもはたくさんやせこけて死んだ。さらに、どこからともなく大勢の飢えた人々が流れてきて、蒲生峠を越しかねて、たくさんの人が行き倒れになった。河原には弔う人もないそれらの人々の死体が打ち捨てられていた。
※この「申年がしんの伝承」の解説は、「申年がしん」の解説の一部です。
「申年がしんの伝承」を含む「申年がしん」の記事については、「申年がしん」の概要を参照ください。
- 申年がしんの伝承のページへのリンク