田広
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田 広(でん こう、? - 紀元前203年?)は、楚漢戦争期の斉の国王。田栄の子、叔父は田横、従父は田儋、族兄は田巿。『史記』の「田儋列伝」「淮陰侯列伝」に記述がある。

経歴
父の田栄は項羽に背いたため、楚軍の攻撃を受けて殺された。田栄の弟の田横は敗残の兵を集めて項羽に抵抗し、劉邦が東進した事もあり項羽が斉から引き揚げると、田横に擁立されて斉王となった。
劉邦の家臣の酈食其を派遣して田広の説得に当たらせ、田広は説得に応じて楚に背いて漢に味方した。しかし功を奪われる事を恐れた韓信は軍を率いて斉を攻め、田広は激怒して酈食其を煮殺して臨淄を放棄して高密に逃亡し、項羽に援軍を要請した。項羽は龍且・周蘭に20万の兵を与えて斉に派遣し、田広は龍且と周蘭に合流して連合して韓信と対峙した。しかし龍且は灌嬰の軍勢に取り囲まれて戦死し、周蘭も曹参によって捕虜にされ、軍勢の大半も戦死か捕虜になった。
残っていた田広ら残兵は逃亡したが、韓信の追撃を受けて城陽で全員捕虜になった。その後、田広は韓信により処刑されたとする説もある[1]。
脚注
- ^ 『史記の事典』538頁
参考文献
- 『史記』「田儋列伝」「淮陰侯列伝」
- 『史記の事典』青木五郎、中村嘉広編著。大修館書店。2002年
田広
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 08:21 UTC 版)
「項羽と劉邦 (横山光輝の漫画)」の記事における「田広」の解説
斉王。一時は酈食其の説得に応じ漢に降るも、韓信が再び攻撃を開始したため、酈食其を煮殺し、これと敵対することになる。韓信に敗れた後、処刑される。上記の従父田儋との親族関係は触れられていない。
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