献帝・呂布支援と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:36 UTC 版)
興平2年(195年)12月、長安にいた献帝が李傕の元から関東に戻るため東上してきた。張楊は献帝が仮の都としていた安邑に参上し、安国将軍・晋陽侯に封じられた。張楊は献帝を連れて洛陽に赴くことを望んだが、他の諸将が従わなかったので、任地の野王県に引き返した。このとき董昭は張楊の下を離れて安邑に残留している(「董昭伝」)。 建安元年(196年)、楊奉・董承・韓暹とともに洛陽への帰還を果たした献帝は、荒れ果てた洛陽の中で困窮していた。張楊は再び洛陽に至り、飢えた献帝のために米・衣服を貢餉した。しかし諸将との関係は険悪だったという(「董昭伝」)。その後、外敵に備えるためと言い再度野王県に戻ろうとした時、大司馬に任命された。 同3年(198年)、呂布が曹操と徐州で戦っていた時、張楊は遠路であるため呂布の援軍に赴くことができなかったが、野王県の東の市場に赴いて呂布を勇気づけようとしたという。 そのような中で同年11月、家臣であった楊醜に裏切られ殺されてしまった。 張楊の首級を曹操への手土産にしようとした楊醜は、同僚の眭固によって殺されている。 同4年(199年)、袁紹の支援を受けようとした眭固が曹操軍に滅ぼされたが、張楊軍の残軍を率いていた繆尚・薛洪は旧臣の董昭の働きにより曹操に降伏した。
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