狭義の朝鮮式山城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 18:50 UTC 版)
「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく。『日本書紀』では、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答㶱春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城したと見える。近江大津宮遷都や水城築城と同様に、唐・新羅からの侵攻を意識した施設であった。 文献では高安城・茨城・常城・長門城・屋嶋城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城・金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない。所在地が明らかな城では、遺構として石塁・土塁・建物跡などが見られる。
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