熊曽討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:03 UTC 版)
『古事記』では、第12代景行天皇の息子の小碓命が命により熊曽討伐をした征西説話が記述されている。この中で小碓命が熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗ったとしている。一方、『日本書紀』では景行天皇自らが熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定しており、のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の息子の日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。 また、『日本書紀』や「天皇本紀」(『先代旧事本紀』第7巻)は、こののちに景行天皇の息子の豊国別皇子が日向国造となった旨を記しているが、「国造本紀」(『先代旧事本紀』第10巻)は豊国別皇子の三世孫・老男が第15代の応神天皇期に日向国造に任じられたと記している。 歴史学界のうち、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降にあるとされており、以上はむしろ応神・仁徳の記述の伏線であるという説もある。
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