瀬戸丸 (仁堀連絡船)とは? わかりやすく解説

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瀬戸丸 (仁堀連絡船)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 05:14 UTC 版)

瀬戸丸 (仁堀連絡船)
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本
インドネシア
所有者 日本国有鉄道 (1974-1985)
フェリーいきつき (1986-1991)
運用者 日本国有鉄道 (1974-1982)
フェリーいきつき (1986-1991)
建造所 臼杵鉄工所
母港 東京 (瀬戸丸)
生月 (第五フェリーいきつき)
信号符字 JG3444
IMO番号 7416650
改名 瀬戸丸 (1974-1985)
第五フェリーいきつき (1986-1991)
Rahmat Buhari
経歴
起工 1974年4月
進水 1974年9月
竣工 1974年12月
就航 1975年3月9日
要目
総トン数 399.23トン
載貨重量 150.00トン
全長 43.60 m
登録長 39.61 m
垂線間長 39.00 m
型幅 10.20 m
深さ 3.50 m
満載喫水 2.74 m
機関方式 ディーゼル
主機関 新潟鉄工所×2
出力 2,000ps
最大速力 14.3ノット
航海速力 13.5ノット
旅客定員 200名
乗組員 5名
車両搭載数 乗用車24台
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瀬戸丸(せとまる)は、日本国有鉄道(国鉄)鉄道連絡船仁堀連絡船船舶である。

仁堀航路で最初の新造船であり、最後の船となった。

宇高連絡船瀬戸丸とは別の船体である。紫雲丸を参照。)

概略

仁堀航路は宇高航路を補助する目的で開設された航路であるが、開設当初の長水丸水島丸をはじめ、他の航路の船舶を再利用していたものである。また、1950年代には慢性的な赤字を抱え始めていた。

そのような状態で、仁堀航路は自動車運送(カーフェリー)で活路を開こうとして、1964年(昭和39年)12月、大島連絡船から転籍してきた大島丸(1961年就航)で自動車運送を開始する。大島丸は1965年(昭和40年)に安芸丸に改称後、1966年(昭和41年)には自動車搭載場を拡張し、2t車8台に増強する。この自動車運送が好評になったため、仁堀航路で最初の新造船が建造されることとなる。

新造船の瀬戸丸は臼杵鉄工所が製造し、1974年(昭和49年)11月29日竣工。自動車24台を搭載可能であった。しかし、建造中に発生したオイルショックにより材料費が高騰したため、造船所と国鉄で建造費のトラブルが発生し、仁堀航路に就航したのは1975年(昭和50年)3月9日のことである。

仁堀航路は1日2往復の運航ということもあり、思った以上の成果は上がらず、1982年(昭和57年)6月30日、仁堀航路は廃止となる。それにともない、瀬戸丸も運航を終了する。瀬戸丸は長崎県生月町フェリーいきつきに売却、「第五フェリーいきつき」に改名し運航。1991年生月大橋開通により航路廃止、インドネシアに売却された[1]

プロフィール

  • 総トン数:399t
  • 全長:43.6m
  • 全幅:10.2m
  • 定員:200名
  • 自動車:24台
  • 航海速力:14.3kt(最高速度)

脚注

  1. ^ 『日本のカーフェリー -その揺籃から今日まで-』 海人社 2009年、p.245、p.265。



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