源則忠
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源 則忠(みなもと の のりただ、天暦3年(949年) - 没年不詳)は、平安時代中期の貴族。名は教忠とも記される、醍醐天皇の孫、上野太守・盛明親王の子。官位は従三位・左京権大夫。
経歴
一条朝前期に民部大輔・近江介を務める。長保2年(1000年)藤原彰子が中宮に立てられた際、則忠は中宮権亮に任ぜられた。
その後、越前守・但馬守として再び地方官を務め、寛弘4年(1007年)従三位に叙せられ公卿に列した。翌寛弘5年(1008年)4月21日に出家。最終官位は従三位行左京権大夫。
官歴
- 永祚元年(989年) 7月22日:見民部大輔[1]
- 長徳3年(997年) 7月19日:見近江介[2]
- 長保2年(1000年) 日付不詳:去介[3]。2月25日:兼中宮権亮(藤原彰子立后)[2]
- 寛弘元年(1004年) 正月25日:見越前守[4]
- 寛弘3年(1006年) 10月5日:見但馬守[5]
- 寛弘4年(1007年) 正月20日:従三位
- 寛弘5年(1008年) 正月25日:見左京権大夫。4月21日:出家(従三位行左京権大夫)
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
- 源則忠のページへのリンク