渋川義陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 20:30 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天文7年8月20日(1538年9月13日) |
改名 | 義陸→入道浄栄(法号) |
官位 | 従五位下、右衛門佐 |
氏族 | 渋川氏 |
父母 | 父:渋川尹繁? |
兄弟 | 義長、義陸、尭顕? |
妻 | 正室:宮氏娘 |
子 | 義正、頼基 |
渋川 義陸(しぶかわ よしたか)は、戦国時代の武将。備後国小童山城主。
出自
渋川氏は足利氏の一門であるばかりでなく、室町幕府2代将軍・足利義詮の正室である渋川幸子の生家でもあり、吉良氏や斯波氏同様、足利氏一門の中でも将軍家の家族として遇された名門である。義陸の系譜の渋川氏は渋川満直の代に御調殿と称されたため子孫も渋川と平行して御調も号したために御調姓をもって称されることもある。備後国御調郡に494石4斗6升7合を領有した他、義陸の嫡男・義正が安芸国高田と備後国三谷で合わせて37石6斗を領したという。
なお、義陸の出自に関しては長く、九州探題の渋川尹繁の子とされてきた。ところが、御調の渋川氏の通字は京都の御一家渋川氏の「義」であること、右衛門佐も同じく同系統の名乗りであることから、京都の御一家渋川氏の一族が備後にも影響力があった同族の九州探題渋川氏の子孫を称した可能性が高いと考えられるようになっている[1]。
略歴
大永6年(1526年)、義陸は御調別宮の領内、現在の三原市小幡町美生のあたりに小童山城を築城し、以後、御調渋川氏の居城とする。
旧備中国守護で備後の最有力国人であった宮氏より、正室を招く。宮氏一門は、幕府にも奉公衆として出仕していた足利氏と縁の深い一族である。さらに義陸は勢力の安泰を図るため、安芸・備後二ヶ国に所領を有する幕府奉公衆にして有力国人・小早川氏と親交し、永正4年(1507年)に小早川扶平に御調の所領の一部を譲与している。これにより尼子氏の侵攻を受けた際も小早川氏の援軍を以って撃退している。また、子・義正には安芸の国人・毛利弘元から正室を招き、その勢力を維持した。
渋川氏は代々、諸国に分散して所領を有しており、京都大光明寺の領地も知行していたが、所領管理が行き届かず苦心したことが知られている。
脚注
- ^ 谷口雄太「中世後期に置ける御一家渋川氏の動向」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P152-155
固有名詞の分類
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