渋川尭顕とは? わかりやすく解説

渋川尭顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/26 17:31 UTC 版)

 
渋川尭顕
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文3年(1534年)?
幕府 室町幕府 九州探題?
氏族 渋川氏
父母 父:渋川尹繁?
兄弟 義長?、義陸?、尭顕
テンプレートを表示

渋川 堯顕(しぶかわ たかあき)は、戦国時代武将九州探題であったとされる。

概要

九州探題であった渋川義長の弟とも従兄弟とも甥ともいわれるが、系図上での正確な位置は解っていない。

「顕」は渋川氏の祖(初代当主)・渋川義顕に肖ってその一字を取ったものであろうが、「尭」(旧字体:堯)については由来が不明である。渋川氏で「堯」の字を用いている渋川義堯渋川義鏡の養子)の偏諱を受けたと考えられるが確証はないし、また、義長の弟とする説を採れば、渋川義陸とも兄弟であり、3兄弟の中で堯顕だけが足利将軍家から「義」の字を受けていないことになる。

そもそも「渋川堯顕」という名は、郷土史に現れるのみであり、天文3年(1534年)、義長が戦死すると九州探題を称して挙兵し、同年中に筑前国姪浜の興雲山で大内氏に敗れ戦死したと伝わる。実在の人物か不明であるが、現在福岡県福岡市西区姪浜地区にある「探題塚」は堯顕を祀るものとして貝原益軒の『筑前国続風土記』に記されている。

なお、『大舘常興日記』天文10年(1541年)11月7日条には「九州たんたい渋川殿、今の名乗貞基」とあり、渋川貞基という人物が跡を継ぎ、義の字を賜り左兵衛督に任官されたと考えられるが系譜は不明。諸寺出世事(九州五山寺院の住寺職への補任権の安堵)もなされているため、この時点でも九州において最も権威がある武士は九州探題渋川氏であった。

出典





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渋川尭顕」の関連用語

渋川尭顕のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渋川尭顕のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの渋川尭顕 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS