清康による躍進と今川氏への従属
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「松平氏」の記事における「清康による躍進と今川氏への従属」の解説
代わって13歳で家督を相続した7代清康(1535年没)は翌年岡崎松平家の山中城を攻略。明大寺城、岡崎城を取得し、本拠を岡崎に移した。岡崎の地では、城下町形成や、岡崎五人衆・代官・小代官体制などの整備を行った。清康は加茂郡・渥美郡の諸豪族を攻めて北三河・東三河まで服属させ三河の統一を進めたが、西に転戦して尾張へと進出したところで家臣に刺殺されてしまった(森山崩れ)。 八代広忠(1549年没)は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で小豆坂の戦いが行われた。しかし、父清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして死んだ。 安祥松平家による岡崎奪取以前の、「光重」-「親貞」=「昌安(信貞)」にいたる旧岡崎城主家を、安祥家に対して岡崎松平家と呼ぶことがある。後述の「大草松平家」がこれにあたる。
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