浅草寺の手水鉢
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『一話一言』によると、延享2年(1745年)に徳川重好が誕生した後、三浦義周は召し出されて500石と番町の屋敷を与えられた。本人は御小納戸役となり、その子・三浦靭負(義如)は御小姓組に入った。 義周は浅草観音に深く帰依していたため、御利益があったとして信心を深めたといい、延享3年(1746年)に雷神門前右手の手水鉢を寄進した。その手水鉢の銘文の写しは『一話一言』に一部を載せ、また文化10年(1813年)の松平冠山『浅草寺志』に全文の写しを載せている。銘文の日付について『一話一言』には8月18日、『浅草寺志』には5月18日とあり、その前年の8月18日に義周は幕臣に取り立てられている。 1978年当時、義周が寄進し、雷門外にあったとされる手水鉢は、現存していなかった。これとは別に、1966年-1978年頃、浅草寺境内の淡島明神社前に「奉寄進水鉢/慶安3〔庚刁〕(1650年)暦三月十二日/三浦五郎左衛門尉」の銘のある手水鉢が現存していた。 義周は寛延3年(1750年)に68歳で死去した(幕臣になったとき、既に63歳だったことになる)。同年、その子・義如は後を継いで小普請となり、五郎左衛門を名乗った。
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