沢岻盛里とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 沢岻盛里の意味・解説 

沢岻盛里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 05:48 UTC 版)

沢岻親方 盛里(たくしうぇーかたせいり、? - 1526年8月18日)は15世紀末から16世紀初頭の琉球王国第二尚氏時代初期の尚真王代の政治家、三司官。豊見城盛親の三男、護佐丸盛春の孫に当たり、毛氏上里殿内の初代である。唐名は毛 英文(もう えいぶん)、童名は達魯加禰(たろかね)、尚清王の名付け親として別名、沢岻太郎名付け(たくし たらーなずけ)とも呼ばれる。

概要

沢岻盛里は正徳年間に三司官を努め、国王をよく支えたという。また浦添間切沢岻村の脇地頭であった。

1522年嘉靖元年)に嘉靖帝慶賀使として明国に渡った際、尚真王の許可なしに国費で鳳凰轎と吐水龍頭を購入した。

帰国後、高級品を許可なく購入したということで周辺からの批判があり、しばらく港に留め置かれていたが、尚真王は沢岻親方が購入したものを気に入ったことで許され、それのみならず沢岻親方の生存中に墓地を与えた。墓の前面上の石碑は「王舅達魯加禰国柱大人寿蔵乃銘(おうきゅうたろかねこくちゅうだいじんじゅぞうのめい)」といい、天王寺の瑞興が書いたもので、沢岻親方が墓を与えられた経緯が記されている。

沢岻盛里の墓は現在、第2の入り口と墓庭が残っているが、以前はその前(現在、住宅地)に第1の入り口と墓庭があり、玉陵に似たつくりになっていた。墓の周囲の石垣は、琉球石灰岩を相方積み(亀甲乱積み)にし、墓の前面は布積み(豆腐積み)にされ、屋根の軒には垂木が彫りだされ、石造りでありながら木造のように見せている。墓の内部は、まずシルヒラシの部屋があり、その奥に第2室があり、石棺が3基並んでいる。さらにその奥は3つの小さな部屋が並び、それらの部屋の石扉を開けると、そこは骨をまとめて葬る所(合葬納骨室)となっている。このように凝ったつくりの内部や、特異な外観もほかでは見ることのできない貴重な墓となっている[1]。沢岻親方の次女は尚清王の長男、尚禎に嫁ぎ、豊見城按司加那志と号された。

引用

  1. ^ 沢岻親方の墓 | 那覇市観光資源データベース”. 那覇市観光情報 (2018年6月26日). 2025年2月2日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  沢岻盛里のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「沢岻盛里」の関連用語

1
76% |||||

沢岻盛里のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



沢岻盛里のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの沢岻盛里 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS